野菜が主役、肉は添え物

一人暮らしを始めてから、自炊をする機会が増えた。

基本的には煮るか炒めるかでまとめて何食分か調理する。その時々で食材と味付けを変えれば、さほど飽きない。

レシピはあまり見ない。それ故に塩加減や火の通し具合を見誤ることもあるし、せっかく美味しく出来ても再現性に乏しい。

一期一会でよし、ということにしている。

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そんな試行錯誤(?)の日々のなか、今夜は待望のヒット作が生まれた。

その名は、大根ステーキ。

作ったきっかけは、本当にさっきの思いつきである。

 

今日の夕飯は煮物。出汁の染みた熱々の大根を頬張りながら、ふと思った。

「これ、表面にカリッと焦げ目をつけて焼いたら美味いのでは??」

根拠は無い。

せっかくの染みしみ大根たちを、失敗作に生まれ変わらせるのは酷な話。

少々迷ったが、大体こういうときは好奇心が勝ってしまう。はやる気持ちを抑えて台所へ向かい、熱したフライパンへ12個の煮大根をぶち込んだ。

ジュー。

大根が良い音を立てる。

仮に不味かろうとも、満足できる音だ。

軽く焦げ目が付くまで焼き、仕上げに塩胡椒とバター醤油を纏わせる。

冷蔵庫に余っていた豚肉とエリンギ少々も「添え物」として焼く。

完成。

センスが無いなりにそれっぽく盛ってみた。

夕食は済ませているので、今は味見程度にしておく。

これで不味かったら目も当てられないが、いざ実食。

和風か洋風か知らないが、美味い!

味見が美味しさのピークであることを差引いても、美味い!

外側のバター醤油のカリッとした焦げ目、内側のダシしみしみ大根の部分。火加減がたまたま良かったようだ。

しばらくは良い食事を楽しめそうで、ひと安心。

 

先にも述べたが、再現性が無いため同じ材料が揃っても改めて作れる自信がない。(ので、研究としては失敗の部類だろう)

でも毎日作っていると稀に、今日のような「当たり料理」に出会うこともある。

料理下手ゆえに、ギャンブルさながらだ。

食べてみたくなった人は、適当に切って煮た大根を適当に焼いてみてください。

今日の植物園

今週前半は気温が上がったが、昨日は寒の戻りで冷え込み、雪もちらついた。

今日は晴れているけれど、気温は低い。

14時頃に訪園。

梅が散っていた。

梅の木は咲く期間が短いにも関わらず、日本中のそこかしこに植えられている。

多くの草木が目覚めておらず、彩りに乏しいこの時期。

あの鮮やかでどこか儚げな花に、昔の人々は次の季節への希望を求めたのかもしれない。

 

園内では木々の新芽がほころび始めている。

シジュウカラヤマガラなどの野鳥が芽を摘みながら木々の間を飛び交う。

山茶花の季節は終わり、椿が花をつけ始めている。両者の花の形状、開花時期の違いを知ったのは最近のこと。

散策終盤、良い風景に出会えた。

建物の壁とフェンスに絡みつく植物。やわらかな陽光が射し、そこにできた影。

様々な偶然が構成する物語にユーモアと美しさを感じ、しばらく眺めていた。

もちろん、植物園が意図した展示ではないだろう。奔放に伸びた草が建物を侵食し、それが衆目に晒されているのは、むしろ望まれぬ状態かもしれない。

一方で、本来はそういうものではないか、とも思うのである。

彼らは管理されるべく生まれた存在ではなく、一つ一つの行為に自らの意思を持った主体として、人の認知の枠では把握しきれない可能性を多分に含んだ存在ではないだろうか。

彼らはいつも、我々の意図や思惑に反する。

時には愉快に翻弄し、またある時は鋭い牙を剥く。

私がここで目にして、写真に収めているもの。

博物館施設や、自然の中での体験の数々。

それらはあくまで真実の微小な断片で、全体には成りえない。

どれだけ断片を掻き集めても、全体像を知る日は来ないのかもしれない。

 

そのことを頭の片隅に置くだけで、目の前の混沌とした世界に寛容な心で、そして謙虚な姿勢で向き合える気がした。

 

2024年沖縄島観光、食について

先週の連休は、職場の同期3人で沖縄旅行に出かけた。

乗継以外で沖縄島に立つのは2019年の遠征以来、5年ぶりである。

当時は採集遠征で、観光らしいこともほとんどしなかった。だから今回の旅は新鮮な心持ちで楽しみにしていた。

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滞在中は、ずっと何かしら食べていたような気がする。

もちろん美ら海水族館などの定番の観光スポットも巡ったわけだが、振り返ると記憶の大半が食事である。

沖縄そばA&Wハンバーガー、ブルーシールのアイスクリーム、タコライス...
美味しい料理の数々から、この地に折り重なる文脈や背景を感じる。

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沢山食べた食事のなかで最も印象深いのは、初日の夜に訪れた「海の幸」という店である。

初日は金曜夜の飛行機で沖縄に入ったのだが、到着が遅れた影響で元々予定していた店に行けなくなってしまった。

チェックイン〆切時刻ぎりぎり(22時)に宿へ滑りこみ、宿の近くの店を調べてここを見つけた。

店を訪ねると、中の灯りはついているが扉とカーテンが閉まっている。ネット上の情報ではまだ営業時間だが、客がいないと早めに閉めるのは離島の店ではよくあること。

無理を承知でノックして挨拶すると、中からご婦人が出てきて店を開けてくれた。遅い時間にもかかわらずご厚意で料理を作っていただけるとのこと。

他に店の当てもなかったので、お言葉に甘えさせていただいた。

「何か食べたいものはある?」と聞かれたので、「沖縄らしいものが食べられたら嬉しいですが、なんでも美味しくいただきます」と答えた。

そこからはお任せで、料理が次々出てきた。

お品書き(サーブ順)

タコの刺身: 近くの海で揚がったタコ足のぶつ切り。シンプルながら強い旨みを感じられた。

もずく: 刻んだ柑橘や薬味が入った特製のタレをかけていただく。私は酢もずくが苦手だが、ここのは程よい酸味でサッパリしており箸が進んだ。

南黒鯛の煮付、蓬の葉とニンニク添え:南黒鯛は海が荒れた時しか獲れない魚らしい。一般的な魚の煮付は醤油味だが、ここのは塩味。臭みは全く無く、上品な白身の味わい。骨や頭の周りの身まで美味しくいただいた。

ゴーヤチャンプルー: 言わずと知れた沖縄料理。だしベースのまったりとした味わいは絶品であった。やはりこれは本場で食べるに限る。

沖縄そば: 三枚肉がたっぷり乗っており、食べ応え抜群。島唐辛子がたっぷり詰まった自家製コーレーグースを途中でかけると、また味が変わって美味しい。いろいろ食べた後でも一人前をぺろりと平らげてしまった。

沖縄の雰囲気はもちろん、このお店のオリジナリティも感じられる料理の数々に大満足。

沢山食べたのにお勘定が驚くほど安く、もっと払わせてほしい気持ちになった。ご婦人の温かなお人柄もとても良い。

次に沖縄へ来るときもぜひ訪れたい。

梅の園

東京へ出かける用事があったので、その前に近所の公園へ。気温も丁度良く、散歩日和である。

梅の木が沢山あると聞いていたので初めて行ってみたわけだが、想像以上だった。

どの木も満開だ。

シートを広げて花見をする家族連れで賑やかな、温かな雰囲気である。

 

とても居心地が良かったので、コンビニで昼食を買ってきて食べることに。

いま、とても良い時間を過ごしていることを噛みしめる。

ずっとこの時間が続けばいいのに、と思った。

幸福感に包まれた日曜の昼下がり。

 

明日以降もお昼はここで食べようと思い、天気予報を確認すると、しばらく雨予報であった。よりにもよってこのタイミングで...

いつも徒歩で通勤するときに通る場所でもあるので、今週は少し早めに出て、軽く眺めてから行こうと思う。

今日の植物園

2週間ぶりの来園。

植物園に向かいながら、この時間を必要としていた自分に気づく。

漫然と歩きながら、目に留まった草花を観察し写真に収める。

彼らの小さな変化を見逃さないよう、注意深くまなざす。

安息と集中の同居。そこに使命感や義務感は無く、何の見返りも求めていない。

でも、自らが主体性を持って生きていることを実感できる大切なひとときである。

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近頃は寒さの峠を越えた感がある。

平日の朝、扉を開けたときに感じる冷気が幾分か和らいできた。

園内でも随所で春を感じられた。

梅は前回よりも多くの木々に花をつけ、辺りに香りを漂わせている。

福寿草が黄色い花を咲かせ始めている。

春の短い間しか咲かないスプリング・エフェメラル。3年前、進学で北海道に引越して間もない頃に野山でよく見かけた。

今日は空に雲が多く、天気がころころ変わる日だった。太陽が射せば暖かい。

特に印象深かったのは、ヒメカジイチゴの葉。

紅葉した葉をしばらくつけていたが、ついには枝に残ったまま枯れ始めている。

まるで葉の縁から火に炙られているようだった。

植物は一見すると動きが無いように見える。

でも、この瞬間も確かに変化しつづけている。

毎週のようにここへ通うようになってから、彼らが生きた存在であることを改めて実感するようになった。

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植物園の後はいつもの梅の場所に向かう。

着くと、木々は先々週からさらに花を咲かせていた。

鈴鹿の関」という品種が特に気に入った。花弁の中心部がほのかにピンク色に染まって美しい。

自宅近所の公園にも梅の木が植っていることを知ったので、散り終わる前にそちらも見に行きたい。

回想、2020年奄美大島

生き物を愛好する人、或いは研究する界隈では〇〇屋と呼称する風潮がある。

すごく大雑把に言うと、例えばチョウが好きな人は蝶屋、飼育が好きな人は飼育屋、といった具合に自称し、互いの専門を認識し合う。

私の場合、今でこそクワガタを採集するために方々へ出かけるようになり、自らが「クワガタ屋」かつ「採集屋」の端くれとして自覚するようになったわけだが、不思議に思うことがある。

一体いつから自分はクワガタ屋に、そして採集屋になったのだろうか。

2019年沖縄遠征のときは、そこまで深くクワガタに気持ちも行動も入れ込んでなかったと思う。

記憶を辿った先に思い当たるのが、今回書き残す2020年奄美大島遠征である。

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行くきっかけは、ほぼ思いつきだった。

7月半ばを過ぎた頃、1年前に沖縄遠征を共にしたクワガタ屋の某氏が南西諸島から帰ってきた。

彼は今年も島々を渡り歩き、クワガタを採っていたのだ。

彼は遠征の土産話を沢山聞かせてくれたが、彼が何の気なしに放ったある言葉が私を強烈に誘惑する。

奄美は良いよ。でかいクワガタがゴロゴロいる」

 

帰り道、その言葉が頭の中を反芻する。

自転車を漕ぎながら悶々と考えていた。

「4年間の学生生活の夏、このまま終わっていいのか...?」

気づいたときには、1週間後の成田発/奄美着のピーチを予約していた。

かくして、2泊3日(ほぼ寝てないので0泊3日が正しいかもしれない)の弾丸奄美遠征が始まった。

ご存知のとおり、この年はコロナ禍の只中である。

行った時期は緊急事態宣言こそ発令されていなかったが、万が一にも感染したりさせたりしてはならない気持ちがあったので、食事は極力持参した食料で済ませ、全て車中泊した。

真夏の奄美での車中泊疲労との戦いだった。夜は殆ど徹夜で採集なので、寝るのは一番暑い昼間である。

若さに身を任せた、いわゆる「限界遠征」だったかもしれない。

前年の沖縄遠征との大きな違いは、一人であることだった。

採集遠征において団体行動と単独行動では動き方も大きく変わる。自分の実力が成果に直結することになり、安全や責任も自分で背負う。緊張感があった。

今となっては笑い話だが、毒蛇のハブが怖くて真昼の見通しの良い林道でも必ず長靴を履いていたし、寝る時は車の窓を閉め切っていた。

結局ハブは1匹も見なかった。

 

現地に着くやいなや、事前に下調べして目星をつけていた場所にバナナトラップを仕掛けに行く。スーツケースに入れられる数しか持ってこられなかったので、素人なりに良さそうな環境を厳選して仕掛ける。

そのとき、木の枝に干からびたトラップの残骸が絡まっているのを見つけた。同業者が回収し忘れたものと思われたので回収すると、1匹クワガタが絡まっている。

奄美群島固有種、スジブトヒラタクワガタの雌だった。翅に入った特徴的な筋模様と全体的にザラついたテクスチャーが良い。

きちんとクワガタがいることを確認でき、ひとまず安堵した。

夜まで時間があるので、人のいない港で時間を潰す。

まとわりつくような熱気。

ゆるやかな時の流れ。

1週間前は全く考えていなかった現実が、ここにある。

今でも鮮明に覚えている風景がある。

日没直前、小さな峠を越えようと車を走らせていると、峠のピークの向こうに朱色に染まる雲の先端が見えた。

時間もあったので、峠を越えた先で車を停めてしばし眺める。

 

周囲は段々と暗くなる。

そして、真っ赤に染まり上がった入道雲が夜空を背景に此方へ迫ってくる。

写真を撮るのも忘れ、呆然と眺めることしかできなかった。

不気味で、畏れを抱いた。

 

簡単な夕食を済ませ、トラップを見回る前に樹液にクワガタが来ていないか見に行くことにする。

昼間のうちに山奥の藪の先に見つけた、柑橘系の木が気になっていた。

カエルだろうか、暗闇からは騒々しい鳴き声が聞こえてくる。

目的のポイントに辿り着くと、そこかしこにアマミヒラタクワガタがペタペタ張りついているではないか。

あまりに刺激的な光景だった。

アマミノコギリクワガタやスジブトヒラタクワガタもちらほら見かける。

採集品を入れるケースはすぐ満杯になってしまったので、特に大きな個体以外はリリースする。

これが南西諸島か...

思わず息を呑んだ。

が、これはまだほんの序の口であった。

 

バナナトラップの様子を見に行く。

樹上に仕掛けたトラップをライトで照らすと、見るトラップそれぞれにびっしりとクワガタが来ているのが見えた。

はやる気持ちを抑え、トラップに網を入れて探る。

クワガタがバラバラと網の中に落ちて重たい。

円弧を描くように大アゴが湾曲するアマミノコギリクワガタにも出会えた。

その後も採集を続けたが、終始アドレナリンが出ているような精神状態で全く眠くなかった。気づいたら夜が明け始めている。

最後の夜に備えて日中は流石に寝ようと思ったが、興奮と暑さで寝られない。

結局島にいる間はまともに睡眠をとらなかった。

 

日中は気晴らしに海沿いの道を流した。

晴れ渡る空と鮮やかに青い海が視界に飛び込んでくる。

2020年、夏であることをようやく実感できた。

 

あっという間に最後の夜。

昨日と同じルートを回る。

 

あるポイントで、10mほど先の木を照らした。

明らかに大きな黒い塊が、幹を這っている。

心拍数が急激に上がる。

駆け寄って掴みとり、車内に戻った。

手に掴んだのは、特大のアマミヒラタクワガタ

昨日も沢山見たが、それらとは比べ物にならないほどデカい。

縦の長さだけでなく、横幅と厚みが全く違う。

静かに興奮がこみ上げてくる。心が震えた。

 

あとは特大のアマミノコギリクワガタが欲しかった。

2時間おきにバナナトラップの巡回を繰り返す。

流石に疲労を感じてきたが、トラップ一面にクワガタがくっつく光景が眠気を中和する。

 

すると、あるトラップにそれまでで一番大きなアマミノコギリクワガタが来ているのを見つけた。

でも、何か様子がおかしい。

網に落として手元で見る。

残念なことに、片方のアゴが折れていた。発生ピークが過ぎていることを実感させられる。

かなり悩んだが、この個体は持ち帰らなかった。

来年はもう少し早く来よう。

 

翌朝まで採集を続け、トラップの撤収や採集品の整理をしていたら帰る時間になってしまった。

右が昨夜の特大個体(71mm)。

左の普通サイズの個体も決して小さくはないのだが、やはり別物である。

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初めての一人遠征で特大個体を得られたのは、とても幸運だった。

短い日程ではあったが、夏の南西諸島の空気感、そこに生きるクワガタの魅力、そして採集しているときの気持ちの昂りを実感した。

 

「まだ、次を見たい」

 

そう思えた瞬間、良くも悪くも「クワガタ好き」から「クワガタ屋」への一線を跨いだ気がした。

回想、2020年深夜徘徊

人生で最も何かに没頭した時間はいつ?

人生で最も濃密だった時間はいつ?

私は迷わず「2020年」と答える。

2020年は春先から晩秋まで、毎晩のように夜の森へ出かけた。私の在籍した大学は敷地の大半が森に覆われている。

目的は、虫を観察するため。

この森にいる虫のことをもっと知りたい、その一心だった。

最初は当時関心のあったカブトムシとクワガタばかり探していたが、次第にそれも飽きてくる。

他の虫にも目が向くようになるのは自然な流れだった。

主に見回るのは、街灯や樹液を出す木。そこには季節や時間帯によって多様な顔触れの虫たちが集う。

しっかり夜が深まった21時前後から見回り、初見の虫に出会ったら写真に収める。それが気づいたら日課となっていた。

平坦な地形を2、3時間程度で見回れる「箱庭感」も丁度良かったのかもしれない。

虫の生態を直に学び、彼らの懐に少しだけ近づけた気がした。

行けば新たな発見が必ずあった。

頭の中には自分だけの「虫の地図」が描かれていく。「この時期の、この時間帯に、この街灯に行けば、あの虫に会えるだろう」といった具合に。

地図は日を重ねるごとに緻密になっていった。

毎日通い詰めると、微妙な変化にも気づくようになる。

注意深く彼らをまなざすことで初めて分かることが沢山あった。

生命は想像以上に逞しく、脆い存在であること。

季節は常に移り変わっていること。

一つとして同じ瞬間はないこと。

今日という日が唯一無二であること。

それらはコロナ禍による孤独で単調な日々を送っていた私にとって、とても大切な学びだった。

様々な選択肢がある大学生活を、毎晩虫を求めて徘徊するのに費やす現状に迷いは当然あった。

お金もかからないので続けられていたが、大学では昆虫に関わる専攻でもなければ、知識も殆ど無いに等しかった。

「こんなことをしていて良いのか、いったい何の役に立つのか」と毎日悩んでいた。

でも、最近になってようやく分かった気がする。

「理屈抜きで没頭できることとの出会い、その過程で得られる学びは、かけがえのないものである」ということに。

人生における出来事が持つ意味は、時間の経過とともに変化する。

確かなのは、当時の私は虫と真っ向から対峙し、そこに何かを見出そうとしていたことである。

あのときの熱っぽい感情、自然に向き合う姿勢は忘れずにいたい。