アマガエルについて

先日、職場の人との宴席で最近の趣味について聞かれ、咄嗟にこう答えた。

「植物園でアマガエルを探し、写真に収めることです」

目の前の上司が怪訝な表情を浮かべていたので補足する。

「一匹一匹に個性があります。神経質なやつ、緊張するやつ、のんびりしているやつ。同じ一匹でも、会う日によって違う表情を見せてくれます」

話がどう着地したかは覚えていない。

でもそれこそが、こうして毎週のようにアマガエルを探し続けている理由なのだろう。

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大学一年生の頃、初めて近所の植物園に行った。部活が休みの日だったと記憶している。気分転換に、緑の多いところでも歩こうかと思ったのだ。

当時は植物や自然に対する関心はあまり高くなく、本当に園内をただ歩いただけだった。

終盤に、野菜が植っている畑の一角に立ち寄った。

苺の葉の上に、一匹のアマガエルが座っている。

水辺が近くになくても生きていけるんだな、と思った。

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大学3年からは部活を辞めて、虫探しに明け暮れた。

虫の次によく見たのは、きっとアマガエルだろう。

コンデジのマクロモードで撮ると綺麗に映る、丁度いい大きさだった。見つけるたびにいっぱい撮った。

このあたりから、植物園に行くことはアマガエルに会いに行くことであった。

でも、そこらへんに沢山いるわけでもない。

畑の苺や植え込み、カラタチの藪、水辺のミツガシワやガマの葉っぱ...

注意深く探さないと見つけられない。

景色のなかに溶けこんでいる。

「いない」のではない。「見出せていない」だけなのだ。

だいたいの場合は、探し疲れて引き揚げようかと思い始めたタイミングで情けをかけるように現れてくれる。

それが彼らとのあいだに横たわることの一部にすぎないのは承知の上で、夢中になってシャッターを切る。

ラッキーな感じも含んだ、心地よい満足感があった。

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就職してから、再び植物園へ通うようになった。

今春もいろんなところでアマガエルを見つけた。体色、肥え具合、目つきに個性が滲む。

冒頭のやりとりで「彼らは表情が豊かである」と言った。しかしこうして観察すればするほど、彼らが何を考えてるのかはよく分からない。

私が見つけて写真に撮っているとき、彼らの目に私が映っていて、同じ時間・空間を共有している。確かなことはそれだけである。

 

何のためにやっているわけでもない。

何の役に立つわけでもない。

そんなことすら考えてもいない。

彼らのまだ見ぬ姿をもっと知りたいし、見逃せない。

だから足を運んでいる。